第2530地区へは、あの日以来多くの物資や義援金が寄せられ、ただただ感謝を申し上げる次第です。国籍を超えた多くのロータリアン、ロータリアン以外の方々からの善意は膨大なものになりました。本当にありがとうございます。
あの日、あの津波は、防波堤も、堤防も、防風林も、想定に対応した人の知恵など一瞬にして吹き飛ばし、人々の街を原野に戻しました。人々は家族をなくし、友人をなくし、財産をなくし、落胆し、絶望し、日中はなくしたものを探しに原野をさ迷い、夜は避難所に座り込むだけの日々が続きました。
第2520地区(岩手、宮城)は復興に向け、少しずつ前に歩きだしましたが、当地区は、原子力発電所による災害を引きずっています。自分の家がそこにあり、働く場所がそこにあり、命がここにあるのに、復興のためにそこに行けないもどかしさ、目に見えない敵の恐ろしさ、風評という恐ろしさ。
あの日、私はたまたま双葉町(今は全町が埼玉県に避難)にいて被災しました。先のリポートで報告したように、町長および町職員の方々の好意で町役場に泊めていただき、翌朝、町職員の誘導で町を脱出しましたが、「避難先は川俣町の●●小学校」「川俣町の●●高校」と、町内に響きわたっていたスピーカーからの悲痛な声は、今も耳から離れません。町長も、誘導してくださった職員の方も、スピーカーで叫び続けていた女性職員も、町役場に避難し余震のたびに机の下に飛び込んでいた子どもたちも、今はあの町にはいません。放射能で家を追われ、町を追われ、無念の日々を送っています。避難先であった川俣町ですら、一部住民はその地を追われたのです。当地区のロータリアンは今日も、避難所に世界の善意を、そして物資を運んで行きます。テントの設営方法の講習を受け、シェルターボックスを運んで行きます。
先日、浜松から当地区ガバナー事務所まで500kmの道のりを、スクーターに支援物資を積んで運んできた72歳のロータリアンを、ガバナーともどもお迎えしました。事務所に荷を下ろすと、しばしの休憩の後、松島に向け走り去って行った、ガバナーと同い年のロータリアンの活動力に、ただただ感激するしかありませんでした。また、福島市内に宿をとり、長期にわたり地区内クラブの被災者支援活動に協力する財団学友もいます。
しかし、ここにきて問題もたくさんあり、「支援対象者の本当のニーズ」「無駄な支援」「一方的な支援」など支援の難しさを痛切に実感しています。それに地区の浜通りの多くのロータリアンも被災し、彼らはロータリー活動どころではありません。今後、いくつかのクラブは消滅するかもしれません。多くの退会があるかもしれません。辛い現実が待っています。ガバナーともども、それらのクラブの次年度の運営資金の手助けをし、少しでも負担が軽くなるよう何とかしようと討議を続けています。
ハチドリのクリキンディが言うように、「私たちは今、自分ができることをやるだけ」です。まだまだ先は長く、自分たちができることをやり続けるだけです。ロータリアンとして、などと言うつもりはありません。ロータリアンもそうじゃない人も、被災者の方々と比べれば自分はまだ幸せだと思える人が、できる範囲で知恵を出し、汗を流し、お金を出していけばよいのです。もう少しの間、手を貸してください。またリポートします。