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国際ロータリーに復帰したとき
 
第2次世界大戦後の日本のロータリー、世界のロータリー

1949年4月 東京ロータリークラブ認証状伝達式、ジョージ・ミーンズより小林雅一会長へ認証状 
1955年2月23日 東京・東京北・東京南ロータリークラブの共同主催で開催されたロータリー50周年記念祝賀会で講演する小林雅一氏

終戦後の援助を検討

第2次世界大戦中、各国のロータリーは次々と国際ロータリーを脱退していきました。しかし、それらの国でロータリーの灯が消えたかといえば、決してそのようなことはありませんでした。各国のロータリアンたちは、脱退後もロータリーの精神をもち続けていたのです。
今ほど通信事情がよい時代ではありませんでした。また、戦争が互いの連絡を不自由にしていたに違いありません。でも、脱退せざるを得なかった国々のロータリアンたちが、名称や形を変えながらも例会をもち続け、ロータリーの精神を忘れていないことは、創始者ポール・ハリスの耳にも入っていたことでしょう。
そして、友人同士が敵味方に分かれて戦わなければならない戦争を愁い、以前のように多くの国々のロータリアンたちが帰ってくる日を、心待ちにしていたのだと思います。『奉仕の一世紀 国際ロータリー物語』には、

1940年代に入ると、ロータリー幹部の多くは終戦後にロータリーができる援助について検討し始めていた。ロータリーが国際奉仕を綱領に加えてから20年が経過した今、国際奉仕が切に求められていた。ロータリーは今や「アメリカの組織」とはみなされなくなっていた。明らかに世界に会員基盤を有し、多様な国々の代表が指導者の地位に就いていた。「ロータリーには戦車も、軍隊もなく、人々に終戦を強制する手段はない。しかし、戦争が終われば(そして戦争は必ず終わる)、その時こそロータリーは輝くことができる。」とイングランド、ウィンザーのウィリアム C. カーター1973-74年度RI会長が数年後に述べている。
銃声が止む頃にはポール・ハリスは高齢になっていた。彼は自分の構想が世界中に広がるのを見た。1945年の時点でロータリー・クラブ数は5,441、会員数は247,212人であった。親睦、寛容、倫理をたゆまず唱道してきたポールは、こういう基本的な人間の礼節が、戦争と、残酷な流血と、憎悪に満ちた宣伝工作によって、ずたずたに引き裂かれるのを見て嘆いた。しかし、78歳の生涯の終わりに近づいた1947年に、ポールは喜びも味わったに違いない。ロータリーは生き残ったばかりでなく、成長したのだ。その存在を揺るがす3つの難関は、ロータリアンに自分たちが誰であり、何を支持しているのかを吟味させるきっかけとなった。ロータリー組織は、そのための苦難や戦いに甘んじ、命すら捨てる価値のあるものか? ポールは――そして他の多くの勇敢なロータリアンも――「その通りである」と揺がぬ確信を持ってこの世を去っていった。

と書かれています。

ジョージ・ミーンズが来日
1945年に第2次世界大戦が終わった後の、各国の復帰については、『ロータリー日本五十年史』に見ることができます。

1945年3月グアムのロータリークラブが国際ロータリーへ復帰したのが被占領地で復活した最初で、同じ年にフランス、ベルギー、オランダ、ノルウェー、フィリピンにある66クラブが復活し、1946年にはシンガポール、上海、香港、ラングーン、アテネ、およびチェコスロバキアの6クラブが復活した。
枢軸国から最初に帰ってきたのはイタリアのクラブで、ルクセンブルク、マラヤ連邦、ギリシャ、ビルマ、シャム、蘭領インドおよびトリエステなどの被占領国からも続々とクラブが復帰してきた。

日本の状況について同書では、

日本においても戦争が終わると直ぐ国際ロータリーへ復帰の希望がわき起こり、東京、大阪、京都、神戸などの各曜会はボツボツ連絡をとり始め、名簿の交換、出席率の知らせ合いなどをやり始めた。
大阪66.33%、京都62.55%、札幌62.16%、小樽64.8%、旭川61.5%、東京58.6%、盛岡54.67%、名古屋42.7%、神戸36%、門司22.25%という記録が残っている。

と当時の人々の国際ロータリー復帰への思いが書かれています。その経過については、

ダグラス・マッカーサー元帥Douglas MacArthurの副官バンカー大佐Bunkerからの情報にあった吉報が同年9月1日にやってきた。
国際ロータリー中央アジア駐在員としてインドのボンベイにいたジョージ・ミーンズGeorge R. Meansが帰米の道を日本へ立寄り東京のロータリー復帰協議会を訪れ、小松 隆会長の案内で東京水曜クラブの例会に出席し、翌9月2日には小松 隆に伴われて神戸へ着き、鈴木岩蔵会長に迎えられて神戸木曜会の例会へ出席、さらに翌9月3日には大丸百貨店に大阪金曜会を訪れて里見純吉会長と懇談し、午後は京都のホテルラクヨーで京都水曜会の絹川 清と会い、その夜東京へ引き返し9月7日空路アメリカへ帰っていった。
ミーンズは国際ロータリーの命をうけて日本のもとのロータリークラブの現状を見るために来たのであって、その復帰には努力するが、それまではロータリーという名称や歯車の記章の使用などは慎しむよう注意した。

と述べられていますが、このようにして、1949年3月23日、東京仮ロータリークラブができ、小林雅一氏が会長となり、3月29日に旧登録番号855で再登録され、日本のロータリークラブが国際ロータリーに復帰しました。その後、京都4月5日、大阪、名古屋、神戸は4月13日、福岡4月22日、札幌5月2日と、まず7クラブが、続けてロータリーへの復帰を果たすことになります。続いて、横浜、今治、高知、広島、西宮、徳島、岡山、函館、小樽、熊本、新潟、四日市、岐阜の13クラブが1949年のうちに復帰しました。
うれしいニュースは続きました。同年11月、戦後新設クラブの第一陣として、一宮ロータリークラブが、次いで小倉ロータリークラブが誕生したのです。

新たな発展の始まり
ただ、非常に残念なことに、日本のロータリーの創始者、米山梅吉は1946年4月28日、福島喜三次は同年9月17日、日本のロータリーの復帰を見ることなく相次いで亡くなっていました。当時の、日本のすべてのロータリアンが、この二人にこの明るい出来事を見てもらいたかったと思っていたに違いありません。
ところで、復帰したクラブは、チャーターナイト(認証状伝達式)を催すかどうかで悩んだようです。この辺りのことについて、『ロータリー日本五十年史』には、

これらは一般に復帰といわれているが、国際ロータリーでは再建として新クラブと同じくチャーターを発行している。
復帰クラブがチャーターナイトを催すかどうかはいろいろ意見もあったが、東京クラブは4月27日工業倶楽部でのその例会で伝達式を行ない、ミーンズから会長小林雅一にチャーターが渡された。ここへは首相吉田茂も出て祝辞を述べ、G.H.Q.総司令官マッカーサー元帥のステートメントもあったが、それには戦後日本で国際団体へ加入が許されたのは宗教関係を除けばロータリーが最初であるといい、さらに東京ロータリークラブの名誉会員を受諾することを光栄とすると書かれていた。
京都クラブは5月3日ホテルラクヨーで、大阪クラブは5月27日大丸で、また神戸クラブは6月2日オリエンタルホテルでいずれもチャーターナイトらしく華やかに晩餐会が催された。

と記されています。そして、1949年7月1日、日本に地区が復活します。

第60地区は1949年7月1日から発足したが、7月19日、20日の両日東京の工業倶楽部ではじめての地区協議会が開かれ、手島ガバナーから国際協議会および国際大会に関する報告があり、国際ロータリーの方針が示され、特にロータリー情報とロータリー財団の重要性が強調された。

と『ロータリー日本五十年史』にあります。同書によれば、戦後初めての地区大会は、

戦災を被らなかったということで、京都が第60地区になって最初の地区年次大会の開催地ときまったが、戦前日本にはじめて地区ができた時の第1回大会も京都であったことが思い出される。
そして日本のロータリークラブが復活した年度の国際ロータリー会長としてそれに署名したアンガス・ミッチェルがこの大会に国際ロータリー会長代理として派遣されて来た。
第60地区第1回の地区年次大会は1950年京都で開かれ、その前夜懇談会は京都銀行集会所で、4月8日の大会第1日は同志社大学栄光館が会場となった。桜が例年より1週間も早く咲いて文字どおりの「花の大会」となり、参会者は30クラブから681名と記録されている。

と、その華やかな様子がうかがえます。その後、日本の発展とあいまって、日本のロータリーも飛躍的な発展を遂げてきたということは、皆さまご存じの通りです。

引用文献  ロータリー日本50年史編集委員会『ロータリー日本五十年史』1971年
デイビッド C.フォワード 菅野多利雄日本語訳監修『奉仕の一世紀 国際ロータリー物語』 2004年

『ロータリーの友』2005年2月号から
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