1905年、ポール・ハリスと友人が集まって4人で始まったロータリーが、100年を経て、今では全世界に120万人を擁する組織になりました。でもこの間、いつも順風満帆(じゅんぷうまんぱん)であったわけではありません。数々の試練を乗り越えてきたのです。
『奉仕の一世紀 国際ロータリー物語』には、
どの河も荒れることがある。ロータリーの一世紀の歴史にも、乱流が起った。中でもロータリー運動を容易に破壊しかねない大惨事が三つがあった。第1次世界大戦と大恐慌と第2次世界大戦である。
と書かれています。今月は、これらの乱流の一つ、日本のロータリーにも大きな影を落とした第2次世界大戦中のロータリーについて触れることにします。
前出の『奉仕の一世紀 国際ロータリー物語』では、
1936年、内戦が勃発したスペインはロータリーを禁じ、国内の36のクラブを閉鎖していた。今やドイツの42クラブ(ダンチヒ自由都市のクラブを含む)が解散され、それから1年のうちに、ドイツとの絆を強めたオーストリアとイタリアの両国でもクラブが解散に追い込まれた。一方、世界の反対側からも悪いニュースが届いた。日本が中国に侵攻し、6都市のロータリー・クラブが強制的に閉鎖された。戦争が勃発し、国々が侵略軍の支配下に入り、484クラブと16,700人のロータリアンがロータリー名簿から抹消された。地元クラブの会員記録がゲシュタポに見つかると、多くのロータリアンが地域社会の有力者として、高い代価を支払った--ドイツがポーランドのワルシャワを占領した時には、ワルシャワ・クラブの会員12名が処刑された。泣く子も黙る日本の憲兵隊もロータリーとロータリアンを不穏分子リストに上げたが、同国のほとんどのロータリー・クラブは政府により強制的に閉鎖された後も、例会の開かれた曜日にちなんだ名称(たとえば火曜日クラブ)で会合を続けた。
多くの被占領国で、ロータリアンは人目を忍んで会合を開き続けた。39クラブが存在するボヘミアとモラビア(ズデーテン地方)をドイツが占領した後、同地のロータリアンが互いの自宅で会合していることをゲシュタポが発見するのではないかという懸念がレスリー・ストラサーズからチェス・ペリーに伝えられた。ゲシュタポがフランチシェク・クラール地区ガバナーの自宅に押し入り、ガバナーに銃口を向けて「ロータリーに関連するすべてのもの」を差し出すよう命じた。ちょうど前日にそういう強制捜査があるかもしれないと考えたクラールが犯罪の証拠となりそうなものをすべて焼却していたとストラサーズは説明している。
ウィーンでは、解散されたロータリー・クラブの会員数名が毎週火曜日にロータリアンとしてではなく「ゴルファー」として会合を続けていた。解散したドイツのキール・ロータリー・クラブのバーナード・ゴールドシュミットが、信頼できる元ロータリアンと共にフライタグスゲゼルシャフト(Freitagsgesellschaft=金曜日企業)と呼ばれる地下クラブを結成した。
と振り返っています。そのころの日本は、どのような状況だったのでしょうか。第2680地区(兵庫県)の深川純一パストガバナーは、1999年に開催された第2830地区大会の記念講演で、
日本のロータリーは昭和初期、軍閥の弾圧を受けました。ロータリークラブというのはアメリカに本部があり、「アメリカのスパイの手先だ」と、軍閥があらゆる弾圧を加えました。昭和八年、京都RCに右翼の壮士の一団が押しかけました。時の会長は、京都電灯の社長でありました石川芳次郎氏。石川会長は、「ロータリークラブというのは世界的な組織であって、私たちは皆、良質な職業人です」職業を通じて世のため人のために働いているので、決して国の利益に反することではありません」と言ったのですが、納得してもらえず「証(あかし)を立てろ」と迫られました。
そこで石川会長は、証を立てるために二つの条件を提案しました。それが、例会で「君が代」を斉唱することと、例会場に「日の丸」を掲揚することでした。その後、ロータリークラブの例会では「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌う慣例ができました。これは、私たちの先輩が軍閥の弾圧を逃れるために、血のにじむような思いで開発した慣例であります。したがって、皆さんは、例会でただ何となく「日の丸」を掲揚し、「君が代」を歌うのではなく、そのことを心にとめておいていただきたいと思います。
と、紹介しています。また、『東京ロータリークラブ50年のあゆみ』には、
1936年、所謂2:26事件が起きた。そして、その翌年の7月に、日(*)華事変が勃発した。それは、止ることなく、ついに1941年12月太平洋戦争へとつながっていった。
こうした情勢の下にあって、ロータリーはどうあるべきかの議論は、内外から起きた。ロータリアンは祖国に忠誠であるべしとする、ロータリーの本義は、到底、一般の理解を得られるものではなかった。国際団体であるという理由だけで、ロータリーは、反戦的であり、亡国的であると断じる一般の誤解は、重圧となって、ひしひしとロータリアンに襲いかゝって来た。
そこで、対策として、日満だけのロータリー組織を新設してR.I.から独立した形をつくり、国際的なつながりを制限した組織形態によって、一般の誤解を和らげ、他面、国内の一般情勢の影響から逃がれられずに動揺する会員の気持ちを、日満独自の運営という提案によって収拾し、内部結束を保持しようとしたのであった。
それは、1939年の別府に於ける地区大会の決議となった。既に活動を開始していた日満連合委員会は、幹事の芝 染太郎を、急遽同年のクリーブランド国際大会に派遣し、日満ロータリー組織の設置を決議するよう要請した。しかし、情勢は極めて不利で、その決議案は撤回されたが、日満連合委員会は、後日、R.I.理事会の配慮によって承認された。
しかし、これらのすべては徒労に終った。ロータリーに関する世間の誤解は、ロータリーに対する攻撃に転じ、スパイ呼ばわりさえされる始末となった。新聞紙上でも、ロータリー解散すべしと論断された。
1940年8月14日の例会に於て、遂にクラブ解散の問題がとり上げられ、賛否両論が沸騰した。他のロータリークラブでも、同様に議論は対立し、その内容が、新聞記事となる不手際も出た。
日満連合委員会では、国家単位に、ロータリーを改組することを提案し、もし、それが、R.I.に容れなければ、国際ロータリーから脱退する方針を定め、各クラブに通告した。しかし、時の動きは余りにも速く、世情の重圧は、既に、支え切れないところまで来ていた。
9月11日、東京ロータリークラブは遂に解散した。
創立者、米山梅吉は、重い足を引きずるようにして壇上に立った。そして、奉仕の理想はあくまで堅持したいと、20年にわたったロータリー歴の最後の言葉を残したのであった。かくて、午後1時45分、会長中山龍次は、解散を告げる閉会の鐘を鳴らしたのであった。
と、その当時の東京ロータリークラブ(RC)日本のロータリアンの苦悩が書かれています。神戸RCの直木太一郎氏によれば、
神戸クラブはこの日満連合会に出席していた岡崎忠雄からの入電によりこの決定を知り翌九月五日の木曜日の例会において解散すると共に直ちに神戸木曜会をそのままの形で組織した。
小泉会長はその豪快な性格とユーモラスな態度とによって各方面の当局ともよく接触を保ちダンネル(独)、デルブルゴ(伊)の外人会員の自発的退会によってうまく妥協し円滑に神戸クラブは推移していたのであったが、京都クラブが遂に二つに割れて解散し、大阪クラブもまた解散したと言うのでひたすら日満連合会の決定を待っていたのであった。
日満連合会に代る新団体の結成について神戸を代表して岡崎忠雄が発起人に指名されていたが、やがてその標準定款もでき、名称も「七曜倶楽部連合会」が良かろうと言うことになっていたが、日米開戦を目前にひかえ各地のクラブはそれどころでは無く結局この七曜倶楽部連合会は文字通りの有名無実となってしまった。
と、東京RCばかりでなく、他のクラブも同じような状況であったことがわかります。日本のすべてのクラブが国際ロータリー(RI)を脱退しましたが、日本からロータリーの灯が消えてしまったのかといえば、決してそんなことはなかったのです。
『ロータリー日本五十年史』によれば、名称を変えて新クラブを発足したクラブは29あったようですが、その名称の多くが例会の曜日にちなんだものでした。そのほか、名古屋同心会、札幌職能奉仕会、横浜同人会のような名称も見られます。
このような試練の時期を乗り越えて、戦後、日本のロータリークラブは次々にRI復帰を果たします。その辺りの話は来月号までお待ちください。
今、長引く不況や社会状況の変化によって、会員数は減少をし続け、ある意味で試練の時を迎えているといってもいいのかもしれません。この試練を乗り越えるために、戦時中のロータリアンたちに思いを馳せてみてください。
注:日中戦争のことです。当時、日本側からはこの戦争のことを〝日華事変〟と呼称していました。
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