セントルイス国際大会で
かつて決議23-34という言葉をよく耳にし、目にしました。『ロータリーの友』でも、決議23-34について書かれた記事がたくさんあります。あるとき、決議23-34という言葉を載せたら、「それは何のことですか」という問い合わせがありました。そのころから、決議23-34と聞いても何のことかわからないという方が、徐々に増えてきたように思います。今これをご覧になっている方の中にも、わからないという方は多いかもしれません。
決議23-34は、社会奉仕活動に対する方針(Policy Toward Community Service Activities)のうち、「社会奉仕活動に関する1923年の声明(1923 Statement on Community Service )」として『手続要覧』に掲載されています。一般的に決議23-34といわれているのは、これが、1923年に開催されたセントルイス国際大会に提出された第34議案であったからです。
この文章は長くてすべてをここに掲載することはできませんが、ハロルド T. トーマスは、その著『ロータリー・モザイク』で、
この決議の中に盛り込まれている方針とプログラムの適用について推奨されている技法の若干を要約すれば次の通りである。
実行の必要に迫られている仕事は何か? 地域社会の公共施設の中にその仕事を手がけることのできる施設があるか? もしあれば、それに協力し、それに力を貸せ。重複してやってはならない。また、もしそのような施設がなかったら、まず適切な企画をもって仕事をやり始めよ。やがてそれは独自の施設出現の口火となるであろう。
と、述べています。また、その意義については、
決議二三-三四が書きおろされて以来、既に五十年間にわたって、全世界における実際上の経験に基づく討議・討論が行なわれた。しかしながら、原理という観点から
するロータリーの説明として、この決議の第一パラグラフをより良く書き改めることは、恐らくわれわれの中誰一人としてこれをよくする者はあるまいと思う。
と書いています。この決議が出てきた背景について、ロータリーの創始者ポール・ハリスは、その著『ロータリーの理想と友愛』の中で次のように述べています。
そのようにして月日の推移とともに漸く台頭してきたものは、ロータリー内部における思想の対立であった。ロータリーへの適応性において、最も重要で最も優秀な機能の一つと考えられた職業奉仕(Vocational Service)の支持者は、社会奉仕(Community Service)が多くのクラブ、殊に比較的小さな土地におけるクラブの会員を容易に独占したという事実を、ある種の羨望をもって眺めるようになった。
『ロータリー日本五十年史』によると、
ロータリーはその成立以来一貫して職業に関する徳義の向上をうたってきたのであったが、1913年ミード会長がロサンゼルスクラブの例をあげて社会奉仕を奨励し、またエドカー・アレンEdgar F. Allenの提唱した身体不自由児の施療訓育運動がアメリカ各州に及んでついにそれが国際身体不自由児童協会International Society for the Welfare of Crippled Childrenに発展してロータリーの看板事業になってくると各クラブは社会奉仕を競い、行き過ぎて慈善クラブと変わらぬものもできてきた。
そこでロータリーの1業種1人制は職業を通じての奉仕によってのみ意義あるものとする者はこの際、社会奉仕の項を綱領から削除すべしと極論するようになった。
しかしロータリーの理想の実現にはまず社会において認められることが先決で、それには社会奉仕を実行する必要があるという現実論も有力で、それがまた期せずして大都市のクラブと中小都市のクラブとの対立ともなってあらわれてきた。
さらに社会奉仕の主体をクラブにおくか会員個々の活動にまかすかについて論争され、やがてこれらの対立がロータリーの分裂の危機をはらむに至り、ついに1923年セントルイス国際大会で34号決議ができたのである。
と記されています。前出の『ロータリー・モザイク』によれば、
ロータリーの歴史を立体的に考察してみると、一九二三年にかの有名な決議二三-三四を採択した時にロータリーは成年に達したといえそうである。
この年セントルイスの大会で、時の米国大統領ハーディングはこう言った。
「仮に私の力で世界中のあらゆる津々浦々にロータリーを広めることができるとしたら、私は躊躇なくそうするであろう。」
決議二三-三四はあらゆる意味において、すばらしい労作であった。この決議の中には“一体なぜロータリーを必要とするのか? そして、ロータリーの基本方針とプログラムはなぜかく定められているのか?”という疑問に対する回答が含まれている。ここでも、必要はその求むる人を生んだのであった。
一九三六-三七年度の国際ロータリー会長になる運命を背負っていたウィル・R・メーニアー・ジュニアがセントルイス大会の決議委員長であった。私はこの大会に参加したロータリアン達が言うのを聞いたことがある。「大会においてこの決議に関連する諸問題についての討議が行われている間も、ウィル・メーニアーは昼夜を分かたず決議二三-三四と取り組んでこれを書き上げたのだった」と。
1923年、そのとき日本では
さて、読者の皆さまは、1923年という年に何か聞き覚えはないでしょうか。ご年配の方には、大正12年といった方がわかりやすいかもしれません。この年、日本では関東大震災が起こりました。
『東京ロータリークラブ50年の歩み』によれば、
こんな状態で、気息奄々として生きのびて来た東京ロータリークラブに、一喝、活をいれたのは、幸か不幸か、あの関東大震災であった。1923年9月のことである。
東京全滅の報は、ただちに電波にのって世界中に伝えられた。救援の手は各国から差しのべられた。東京ロータリークラブを名指して寄せられたそれらの救恤は、大阪R.C.経由で、送られてきた。R.I.からの¥74,216.16を筆頭に、17ヶ国、503ロータリークラブにのぼり、その合計は、¥89,161.12に達した。今日の貨幣価値に換算すれば幾らになるか、恐らく、3億円近いものになるであろうが、それは、今日の3億円とは比較にならない巨額なものとして、当時の会員の眼に映じたことは間違いない。
と、RIならびに世界中のロータリークラブから寄せられた支援がいかに大きなものであったかが、記されています。前出の『ロータリー・モザイク』でハロルド T. トーマスは、
ロータリーが一九二三年に成人に達した分野がほかにもう一つある。国際大会が国際協調を呼びかけてから三カ月も経たないうちに日本の東京と横浜の両市が地震と火災のため荒廃に帰した。次に示すのは公式記録の抜粋からである。
「日本の大震災(九月一日)がもたらした火災が鎮火するかしないうちに、数千ドルに上る義捐金が全世界各地のクラブから東京ロータリークラブに流れ込み始めた―そして、特別救済資金を調達した国際ロータリーからも。東京ロータリーは良識をもってこれらの義捐金を分配した。入院患者達のために市内の各病院に、東京と横浜の小・中学校に、東京孤児院の構内に家を失った孤児のための二階建の“ロータリー・ホーム”を建設するために。」
ロータリーの酵母は地域社会の中で、国家の中で、そして全世界の国家群の中で、作用していたのである。
世界各国のロータリーから寄せられた義援金は、生まれて間もない、まだロータリーがどのようなものなのかよくわかっていなかった東京ロータリークラブの会員の意識を大きく変えたと伝えられています。現在の日本のロータリアンたちが一生懸命に奉仕活動をするのも、そ
のときの恩返しの意味が込められているのだといわれる方もいらっしゃいます。
ロータリー100年の節目に当たり、その後の国際ロータリーを、そして日本のロータリーの一つの節目であった、1923年という時代を思い起こしながら、自宅で、または例会の折、決議23-34「社会奉仕に関する1923年の声明」を読んでみませんか。80年前のロータリアンたちの思いの中に、奉仕の第2世紀へのメッセージを、見つけることができるでしょう。
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