大きな役割を果たしたチェスリー・ペリー
4人の会合から始まったロータリークラブ(RC)は、徐々に会員の数を増やしていきました。ロータリーの創始者ポール・ハリスは、世界中にロータリーが広がっていくことを望んでいましたが、シカゴRCの会員の多くは、その考えに賛同しませんでした。そこで、ポールは、自分自身で実践することによって、夢を実現しようと考えたのです。ロータリーは、シカゴからアメリカのほかの都市へ、そして国境を超えてほかの国へと広がり始めました。ポール・ハリスは著書『ロータリーへの私の道』で、ロータリー運動を拡大していくに当たって、初代事務総長となったチェスリー・ペリーが果たした役割について、以下のように書いてたたえています。
この人がいなかったら、ロータリーに何ができたか。その人の出現はそれほど大きな意味をもっていたのです。チェスリー・R・ペリーは、シカゴ・クラブの活動に大いに熱意を傾けていたとはいえ、ロータリーの運動を拡大してゆくことに関心をもつようになるまでには、しばらく時間がかかりました。しかし、そうなったとき、私は彼がほんとうにありがたいパートナーであることを知ったのです。
チェスが「世界じゅうにロータリーを」という考えに転向したについては、ちょっと変わったいきさつがありました。新しくシカゴ・クラブの会長になったものが、ロータリーを「世界に広げる」ことに賛成できなかったので、チェスをクラブの拡大委員会の委員長に任命しました。もちろんそれは、不合理で実現の見込みがないと考える拡大運動に賛成の人たちを、挫折させるためであったことはいうまでもありません。
私としては、シカゴ・クラブから総スカンを食うか、拡大委員会の新任委員長をもっと広い視野をもつように改宗させるか、どちらかをやらねばならないことになったわけです。
そこで、ある日曜日にチェスが暇なときを見計らって、電話をかけることになりました。ふたりの話しあいの間に、チェスは「ねえ、ポール、君が考えている理想に比べると、シカゴ・クラブなんてどうでもいいなどと、どうして考えるのかね」と聞きました。
私がそれにどう答えたか覚えていませんが、これは容易ならぬ事態だと察して、私の考えを守るためにいっせい射撃を始めました。チェスはそのときあまり多くを語りませんでしたが、私にとってはそれで十分でした。受話機をおいたとき、味方ができた、もう大丈夫だと確信しました。そのすぐあと、彼と私は、他の人たちからも助けてもらいながら、現存のクラブの連合会をつくる計画にかかりました。チェスは、ロータリー・クラブ全体の第1回大会を計画し、組織するのに大忙しになりました。
シカゴのロータリアン仲間の何人かは、前から乗り気で助けてくれていました。彼らはアメリカ国内に関しては可能性があるとみていたのですが、世界的な運動となる可能性まで頭にえがくものは誰もいなかったのです。むしろシカゴ以外の都市につくられたクラブのほうが、より視野の広い哲学を発展させるのに熱心で、状況に対して新鮮な見方をしていたくらいです。
チェス・ペリーは、肝どころをすべてつかまえて、万事を公平に評価する力をもっているようにみえました。彼はロータリーを感情的にだけでなく、知的にも大切にしていました。私がひとりで戦う必要はもはやなくなりました。チェスがいつも私の傍らに、いや、いつも私の前にいてくれました。彼は闘志満々でした。
ポール・ハリスは同書に、「チェス・ペリーと私がいっしょにうまく仕事をしてゆくことができたことは、ロータリーにとって大きな天の恵みだったと思います。おそらくそれは、私たちがロータリーによって感化されていたことによるものではないでしょうか。ある立派なことを全身全霊を打ち込んでやれば、必ずそのよさが自分自身に返ってくるものなのです」と書いています。
これこそ、「最も良く奉仕する者、最も多く報いられる」ということなのでしょうか。このモットーの産みの親、アーサー・フレデリック・シェルドンと彼が親交があったことは言うまでもないことですから。
シカゴから全米へ、そして世界へ
ロータリーはシカゴに近い街から少しずつアメリカ全土へと広がっていったわけではありません。2番目のクラブは広大なアメリカ大陸を一挙に横断して、西海岸のサンフランシスコにできたのです。なぜ、サンフランシスコだったのか、その答えは『奉仕の一世紀 国際ロータリー物語』に見つけることができます。
1908年6月、青年セールスマンのマニュエル・ムノズがシカゴからサンフランシスコに到着し、キャデラック・ホテルにチェックインした。次の日の夕方、ロビーでテーブルの前の椅子に腰掛けて、ムノズは翌日の予定を立てていた。2年前の大地震以来、再建がまだ続いているこの街に不慣れなため、テーブルを挟んだ向かい側の男性に、道案内を請うた。こうして、マニュエル・ムノズはその時同じホテルに住んでいたホーマー・ウッド弁護士に出会った。話し始めると、会話はどの通りがどこにあるという話題から大きく外れた。互いの職業、生まれ故郷、シカゴとサンフランシスコの違いなど、話がはずんだ。それからマニュエルはポール・ハリスの要請を思い出して、ホーマーにロータリー・クラブについて語った。「ここに働き手がおり、ロータリーの種を播く肥沃な大地があると思いついたのです」とムノズは述懐している。若い弁護士には、これが非常に興味深いアイデアに思われた。彼は社交家であり、取引と友人が増えるというメリットが魅力であるし、このロータリー・クラブは街のどのようなクラブとも違っていた。会合を終える際、ムノズはシカゴのポール・ハリスに手紙を書くように勧めた。
ホーマーの手紙がサンフランシスコから届くと、ポール・ハリスは天にも上る想いだった。サンフランシスコは、彼が若き放浪時代に、駆け出し記者として働いた街だった。次の街といえば、ニューヨークか、ボストンか、デトロイトか、はたまたジャクソンビルかと頭に描いていたが、サンフランシスコでも無論問題はない。彼は直ちに返事を書き、シカゴ・クラブの定款・細則を同封して送った。この書簡がシカゴから届くと、ホーマーはこれを持って親友のチェスター H.ウールシー博士を訪れ、このようなクラブのサンフランシスコにおける可能性をどう思うか意見を求めた。
こうして、サンフランシスコRCは、1908年11月12日に創立の日を迎えたのでした。その後、アメリカ国内に徐々に広がっていったロータリーは、ついに国境を超え、カナダ・マニトバ州ウィニペッグRCが結成されるに至りました。この時の経過については、
1910年11月、全米ロータリー・クラブ連合会が結成され、その第1回目の年次大会が開催された3カ月後、シカゴのロータリアン、アーサー・フレデリック・シェルドンがチェス・ペリーに驚くべき発見を伝えた。シェルドンはちょうどカナダのマニトバ州ウィニペッグから帰ってきたところで、そこでシカゴ滞在中にロータリーについて知っていたというマッキンタイヤー氏と会った。彼はシェルドンに自分もロータリアンであること、ウィニペッグにできた30余名の新クラブの会員であることを伝えた。地元の実業家がロータリー・クラブを結成したが、米国の人間には誰も連絡していないという。
チェスリー・ペリーはただちにマッキン・タイヤーに手紙を書き、彼のクラブが全米連合会に加盟することの価値を説いた。クラブで検討に検討を重ねた後に、ウィニペッグ・クラブは1912年2月に連合会加盟を申請し、3月1日に認証された。ウィニペッグのロータリアンC.E.フレッチャーがミネソタ州ドュルースで開催された1912年大会に出席した。彼が「全米ロータリー・クラブ連合会から国際ロータリー・クラブ連合会に名称を変更する動議を提出します」と発言すると、一瞬の沈黙の後、会場がどよめき、満場一致でこの動議が採択された。
と、『奉仕の一世紀 国際ロータリー物語』に書かれています。こうして国際組織となったロータリーは、その後、大西洋を渡り、イングランド、アイルランド、北アイルランド、スコットランドへと広がっていきました。アジアで最初にロータリークラブができたのが、フィリピン・マニラで、1918-19年度のこと。日本に渡って東京RCが承認されたのが、1920-21年度のことです。この年度には、オーストラリア、ニュージーランド、メキシコ、フランス、スペインも新規加盟しています。現在では、168か国にまで広がりました。
ポール・ハリスがロータリーを創設するまでに5年間の放浪生活をしていたことは、本誌8月号でご紹介しましたが、『ロータリーへの私の道』で、彼は、
ロータリーが、文明世界全体に定着していくのは間違いないと主張することはまったく愚かな考えだと、強く言い張った人びとも、結局は、旗を下ろさなければなりませんでした。しかしそれは、私が1910年にシカゴで開催されたロータリー・クラブ全体の第1回大会と、もう一つは、1911年にオレゴン州ポートランドで開かれた第2回大会で、予言したことでした。
ロータリーの運動を国際的な規模にもっていくに当たって、私自身の5年間にわたるロマンチックな放浪生活が大いに役立ちました。あの放浪がなかったら、ロンドン、パリ、ローマ、ベルリン、その他世界の都市にロータリー・クラブをつくるというビジョンをどうして私がもつことができたでしょうか。他の人たちならともかく、私にはとてももてなかったでしょう。
と、無駄ではなかったと、述懐しています。
ロータリーは、友情を大切にしています。ロータリアン同士はもちろん、それぞれのロータリアンがそれぞれの職業を通して、また、それぞれの人生の中で築き上げてきた友情が、ロータリーの発展に寄与することを、創設者ポール・ハリスは身をもって、ロータリアンたちに教えてくれているのかもしれません。
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